敵が死んだら?辛さから逃れるには?
父親など死んでしまえという恨み
幼い頃から虐待されていた私は、父親に対して様々な感情を抱いていました。
死んでしまえと思うこともあれば、友人の父親のように定職について父親業をこなしてほしい…つまり私を子供として愛してほしいとも思っていました。
結果的にそれは叶わず、親が離婚するその時まで私は虐待され続け、母親に引き取られてから一度だけメールで「愛している」と言われましたが、それは寂しさからくるものであり、本心では私のことなど愛していないのだなと確信をもった瞬間でした。
本当はとうに気づいていましたが、15歳だった私にはそれは信じたくないことで、ずっと目をそらしていました。
そして私は社会人となり、父親の孤独死に伴う負債額の支払い請求を受けたことによってその死を知ることとなりました。
高校、大学と一切養育費は支払われず、全て奨学金で通ったため、その間にも父親へ対する恨みはつのり、諦め、また恨みと感情は増幅していきました。
敵が死ねば報われる。父親が死ねば私の心は救われる。
そう呪ってきましたが、結果としては全くそんな事は無かったのです。
父親はあれだけ入れ込んだ愛人にも見捨てられ、死体もしばらく経ってから発見されたそうです。私自身は死体も骨も墓の場所も知りません。調べもしませんでした。
残ったのは、
私は終ぞ自分を愛してくれる父親を持てなかった子
という確定した事実。虚無感。本人は死んだので、もう更正も愛もへったくれも無い、できないのです。死んだらそれでおわりです。
彼には父親を望んではいけなかったのです。
私の中に密かにしまっていた子供心よ、これでもう諦めがついただろう…。
お姉さんを助ける
私は自分の影が大好きでした。朝や夕方に長くスラっと伸びる自分の影は、お姉さんとなった将来の私を連想させてくれたからです。
父親はしばしば、私に頑張らない事、勉強しない事を求めました。
女が勉強などしても下手に知恵がついて可愛げが無くなるだけだと言われ、学習用品をダメにされた事もありました。
しかし私は隠れて勉強をし続けました。すべて“お姉さん”のためです。
保育園児、小学生、中学生…幼女や少女だった時代に常に意識していた事です。
彼女たちはまだ見ぬ“お姉さん”を心の拠り所としていきました。
分割されてゆく自己
将来の自分を“お姉さん”として、自分の延長線上から抜き出した事は先に書きましたが、おそらくこの頃から私には自己分割の癖がついていました。
当時多重人格というものがTVなどでよく特集され、辛い現実から逃避するため…と
字幕が出たときに10歳だった私はこれだ!と思ったのです。
実際多重人格ではないものの、意識的に「今暴力を受けている私は違う私」「勉強する私はお姉さんのための私」「学校へ行く私はただの私」などと分けて考えるようにしました。
その弊害なのか、大人になった今、子供時代の自分にまるで親近感がありません。
明らかに私であるはずなのに、別の人間として捉えてしまいます。
現在、私が日常的に最もよく支配される考えは、
幼女少女だった彼女たちの期待に応えられているか?
彼女たちは満足しているのか?
です。親のようで、スパルタ家庭教師のような、うまく表現できませんが見守られている気さえします。
彼女たちの犠牲の上に、今の私の幸せがあるのです。