おまえ、死んだのか

逞しく生き抜いてきた雑草がこれからも生き抜く過程

息子なのか、娘なのか

 

 

女の子風男の子

私は物心ついた時から一人称を「オラ」とすることを父親から強制されていました。

本当は息子が欲しかった父親は、国民的アニメであるクレヨンしんちゃん野原しんのすけと娘である私を重ねたのです。

ぞーうさん、ぞーうさんを一緒にやった事もあります。それがいったい何なのか、当時の私には分かってはいませんでしたが…。

 

しかし同時に、女である事も強制されました。

将来貰い手がなくなる、男は体が汚い女が嫌いであるとし、膝でのすり歩きや砂利の上に膝立ちなどは決して許されず、常につま先を意識して歩くように教えられました。

しかし残念な事に、一方では私にしんのすけを求めた父親だったので、同行した昆虫採集や釣り等で常に生傷は絶えず膝もそれなりにヤンチャ感あふれたものに成長しています。

 

女の子としての目覚め

私の一人称がようやく「私」に戻ったのは、小学5年生の時です。

男子からの嫌がらせで精神的身体的に損傷して入院した際、私は男の子を演じずとも怒られない病院という居場所を手に入れました。

同年代の女子も居たため、綺麗な飴を交換したりお絵かきをしたりと楽しく過ごしていました。また、幸か不幸か父親は「やられたらやり返せと言っているのに怪我をして帰ってきたのか?弱すぎる。俺の血筋にそんな軟弱者はいない」として、一度も見舞いに来なかったため、「オラ」と発言する機会は一度も発生せず、そのまま一人称は「私」へと変わっていきました。

半年の入院と療養3カ月を経てクラス復帰しましたが、「オラ」呼びをやめて女子の中で過ごせたこの期間はとても楽しいものとなりました。

 

オンナへの嫌悪感

私は女子としては当時から身長が高く、二次性徴も早くおとずれました。

退院後の3カ月は療養のために自宅学習や軽いボランティア参加をしていましたが、ボランティア参加にてある男性達と出会う事になります。

私が施設のテーブルを拭いていた時、襟首から中を覗き込んで「おっぱい、大きいんだねえ。まだ11歳なのに」と話しかけてきたり、

さらに別の男性からは、「これは君だよ」と絵を受け取り、開けてみたらオリジナルの裸婦画だった事もあります。

また父親からも、履いていたジーパンをグイっと上に引っ張られ「アッ!スジ丸見えッ!(歌舞伎風)」と茶化されたり、「顔は大人びてきたのに胸の大きさが物足りない」など、常に身体的指摘を受けてきました。

母親は空気です。逆らえば暴力の家庭ならありがちかもしれませんが、離婚を考えていてもすぐには実行できないようでした。私も特に母親へは報告していなかったため、陰でひたすらネチネチと嫌がらせをされてる状態でした。

また、暴力を振るわれ不倫され、娘がこんな扱いを受けているのに私を助け出してくれない母親へは不信感もありました。メスなのだ、こいつは母親以前にメスなのだ!という目で見たこともあります。

大人になった今では男女の賃金格差故の自立の難しさ、当時の母子家庭支援の手薄さ、シェルターが無いなどの状況を鑑みれば母の不動も飲み込めますが、子供だった私には「オンナは不利だ、オンナという生き物はどうしようもない」と、アンチ自分、アンチ母親、アンチ女性へとのめり込みそうになりました、

しかし男性へ対しては、なまじ「友達のお父さんはしっかりしているのになあ」という憧れがあったせいで、どこかにマトモな男性はいるはず!と甘々評価でした。

このゆがんだ価値観はのちに、入院していた病院の主治医にカウンセリングにて矯正されていきました。

女だから男だから悪いのではなく、その個人単体が悪いのだ。私が一方的に悪い事をされたとき、悪いのは私ではなくその人なのだ。という考えを持てたのは、通院カウンセリングをして中1になった頃でした。